延命山 養寿寺(ようじゅうじ)
当寺は妙心寺派に属し、大慈院といわれていた。本尊は延命地蔵菩薩。
延享二年(一七四五年)奥平昌成公の実母、養寿院殿が中興の開基で、養寿寺と改められた。
山門の両開きの扉の表面には、鳳凰をあしらい、裏面には松竹梅の印刻がある。
寺伝に江戸初期寛永年間の建立をいわれるが、桃山様式の豪放な気宇がうかがわれる。
「このあたり、目に見ゆるもの、皆涼し」 芭蕉の句碑がある。
かつては、すぐ近くまで潮が寄せ、海風が涼しくよい眺めであった。
芭蕉堂は、奥平昌高公の文政年間の建立である。
明治初年、中津城から移された織部灯篭や室町時代 文明十年(一四七八年)銘の
六面石幢・赤栴檀(あかせんだん)の香木で彫られた三国伝来インドの毘首羯摩(ビシュカツマ)
の作といわれる雪山苦行の釈迦像等がある。
中津市
中津の郷土史を語る会
織部灯籠
別名キリシタン灯籠ともいい、隠れキリシタン礼拝用の石灯籠と伝えられている。
その後、茶庭に好まれ諸方に庭園灯籠として作られた。
この灯籠の特徴は、竿の上部にクルスを表現したような膨らみを持たせ、同じく竿の部分にガウンをまとった
宣教師風な人物の足を外開きにした姿が陽刻される、というものである。また、ラテン文字のような文様が
あるものもあるが、当養寿寺を含め市内の織部灯籠にはそのような文様はない。
織部灯籠は中津市内に現在三基のこされており、古田織部と友人である細川忠興が妻のキリシタンであった
細川ガラシヤの菩提を弔うために、中津城内に建立した長福寺にあったものを、それぞれ移転したと
伝えられている。(別の伝承もあり)
中津市以外に県内では大分市に二基、竹田・臼杵に各一基残されている。
また、宮崎県日南市の旧飫肥藩内には、天正遣欧使節の伊藤マンショの関係からかキリシタン灯籠や隠れ
キリシタンの墓などが多数残されている。
織部灯籠という名称は、古田織部正重然(ふるたおりべのかみしげなり)が考案した灯籠の
一種であることから、名付けられたと伝えられている。
古田織部正重然 1544〜1615
織部は安土桃山時代から江戸初期にかけての大名で、山城国西岡に三万五千石を領した。
また 千利休の高弟として利休七哲の一人に数えられた。
徳川方の大名であったが、元和元年(1615)五月、大阪夏の陣直後、徳川家康に死罪を申し渡され切腹した。
豊臣方と内通した罪を問われたなど、諸説あるが原因は不明である。
中津市教育委員会
中津の郷土史を語る会
元々 奥平家が山形にいた頃、藩主が殺害した山伏の供養の為建立したものとのこと。
転封に伴い中津に移転してきた。
山門の両開きの扉は、現在は保存の為、本堂に保管されています。(中津市有形文化財)
織部灯籠は(中津市有形文化財)に指定されています。
最も重要なことは、毎年12月8日だけにご開帳される1478年(文
明10年銘がある釈迦像が中津では珍しい「須弥壇」に安置されています。
12月8日以外は拝観することができない寺宝です。