地域 中津市北原
了門山 西福寺
宗旨 浄土宗
本尊 阿弥陀座像
住所 〒871-0113 大分県中津市大字北原597
ここも 無住のお寺さんになっています。
山門 | 山門 |
山門全景。→ | →三解脱門 了門山 西福寺 第四十九代 然譽泰眞代。→ |
本堂 | 本堂 |
→本堂全景。→ | →本堂に架かる扁額。→ |
本堂 | 本堂 |
→本堂に架かる當麻曼荼羅極楽浄土図。→ | →本堂に架かる半鐘。→ |
境内 | 境内 |
→観世音菩薩立像。→ | →地蔵菩薩立像。→ |
由来看板 |
→西福寺の由来 西福寺は鎌倉時代文永二年(1265)に、北原人形芝居に因縁深い 執権北条時頼の信任厚い阿部大内蔵が創建し、開山了門上人は九十五才の長寿を保った。高僧で妙相寺の第三世と なり了門と号した。この寺は山号を了門山西福寺といい 元は天台宗として出発し内陣の須弥壇の寺紋も皇室ゆかり の菊の紋と桐の紋を配する程の寺格は高いものである。その後まもなく善導寺(久留米市)末寺となり浄土宗に 改宗した。現在は形式上京都知恩院の末寺である。現在の本堂は明治十一年(1878)再建されたものである。本尊は 阿弥大内茂が七百年前鎌倉にて入手した上品上生の阿弥陀座像で「カスガ《作と古記録にある。境内にはもと観音堂 、閻魔堂、鐘楼が最近まであったが何れも老朽廃滅した。寺宝に涅槃像の掛軸一幅がある。明和四年(1767)と 慶応元年(1863)昭和五十八年(1976)に修復している。古い仏画の傑作で釈尊の周囲の仏菩薩に銘々吊前が記載された 珍しい形式である。 平成六年九月 三保の文化財を守る会→ |
最明寺
宗旨 浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来
住所 〒871-0112 大分県中津市大字北原
ここは 元来 無住のお寺の様子
本堂 | 本堂 |
本堂全景。→ | →篠栗八拾八ヶ所 南蔵院別院 鎮西四国 第弐拾六番 最明寺。→ |
本堂 | 本堂 |
→本堂内の景色→ | →本堂内の景色。→ |
境内 | 境内 |
→境内の景色→ | →境内の景色。→ |
境内 | 境内 |
→境内の景色→ | →境内の景色。→ |
縁起看板 |
→大師堂は北原芝居発祥の地とされる。その創建は800年以前の平安時代と思われる。 それを物語るように祐阿上人の墓がある。祐阿上人は後堀河天皇嘉禄元年(1225)に大字福島野中山妙相寺の開山である。 上人の墓標に当寺中興開山願蓮社誓誉上人牛山大和尚とある。中興とは大師堂を再建した事を示すからその古さを 示している。 北条時頼が執権職と退いて蒙古軍の来襲に備える九州武士団の督励に巡歴された時、中津で大病 にかかり、北原の陰陽師阿部大内蔵等は献身的看護と治療にあたり、その甲斐あって全快した。そのお礼参りのため大師堂に参詣した。村人達は時頼を 大歓迎し、全快祝の席上 人形芝居を演じ祝賀の意を表した。時頼は大いに喜び「北原は海にも沿わず山にも つかぬ土地柄であるから芸能を以って身を立てよ《と勧めたのが北原芸能の始まりという。阿部大内蔵は時頼 の召しにより鎌倉に入り扇と亀甲の紋章と西国一向の司に任せられ諸国通行の手形を下付され「かすが《作の 阿弥陀の像と奉持つして北原に帰り、その像は西福寺が文永二年(1265)天阿上人(妙相寺三世)が開山と なるまでこの大師堂に安置されていた。大師堂は当初天台宗の小寺院として発足した。仁孝天皇文政四年(1821) 郷士藤兵衛の発起により改築され瓦葺の現況に近いものになった。この改築に時頼の五〇〇年祭をしたと古記録 にあるが五五八年祭に当っている。堂内には伝教大師像を中心に弘法大師像六(内石像一、絵像一)上動明王一、 阿弥陀一、十一面観音一、聖観音一、北条時頼のい位牌が安置されている。境内に見事な宝篋印塔(当村松本 富衛門要信建立)祐阿墓、地蔵宝塔等は二世紀を経たものと昭和二十七年建立の修行大師像に続いて造立された 十三仏石像曼荼羅がある。現存の堂は文政の堂を最近補修したもので、天台宗から真言宗色を濃厚にして南蔵院 の別院となって近隣信者の尊崇が厚い。 昭和五十九年四月 三保の文化財を守る会→ |
次は田尻を訪ねてみましょう。