中津市のお寺さん巡り

城下町中津と旧市街、新市内、旧下毛郡内のお寺さん紹介
中津市には数多くのお寺さんがあります。中津城とその城下町を造る際に東側の外堀に沿ってお寺が隣接した
寺町を作り、また その外周部にもお寺を配置することによって、中津城下町を守る防御線となりました。 お寺の裏側に土塁を設け、その外側に外堀があるので 外敵の侵入を阻んだと思われます。今では 道路事情も変わり 昔のなごりは少なくなりましたが、ふと目にした一枚の写真から何かを感じ取って頂けたら幸いです。

地域 中津市山国町

 雲渓山 円照寺

宗旨  浄土真宗本願寺派

本尊  阿弥陀仏

住所  〒871-0715 大分県中津市山国町宇曽579

円照寺1 円照寺2
山門 山門
山門全景。→ →山門を見上げてみると。→

 

円照寺3 円照寺4
山門 本堂
→山門に架かる「浄土真宗本願寺派 雲渓山 円照寺」の表札→ →本堂全景。→

 

円照寺5 円照寺6
本堂 本堂
→本堂正面入口→ →本堂正面。→

 

円照寺7 円照寺8
本堂 本堂
→本堂内の須弥壇の景色→ →本堂内の格子天井と扁額「雲渓山」。→

 

円照寺9 円照寺10
本堂 本堂
→本堂内の景色→ →本堂内の景色。→

 

円照寺11 円照寺12
境内 書庫
→石建碑→ →以前に雷により本堂が延焼した時も、この書庫だけは無事だったらしい。→

 

 

 

 廣谷山 珀明寺

宗旨  真宗大谷派

本尊  阿弥陀如来

住所  〒871-0704 大分県中津市山国町吉野1335

珀明寺1 珀明寺2
掲示板 参道
十一月の言葉 開というは 如来のちかいの御なを 信ずともうすなり 法語カレンダー。→ →参道の先に石階段が見えます。→

 

珀明寺3 珀明寺4
山門 山門
→石階段を上がると山門です。→ →山門を境内側からみると。→

 

珀明寺5 珀明寺6
珀明寺再建記念碑 本堂
→廣谷山珀明寺の歴史は古く、史伝には「在昔源義朝の臣に渋谷金正丸なる者あり。 平治の乱後平氏の難を避けて此の地に来り」云々と伝える。その子孫が仏門に帰し、数世を経て慶順なる僧 真宗に 転じ大谷派に帰す。これをもって珀明寺第一世となす。しかるにその後の当山は「柱梁朽壊し道場の観あることなし」 といわれるほどの荒廃。明治二十五年十四代住職円慶は当寺の再建を発願。同二十七年「巍峨宏麗の堂宇」は竣功。 以来凡そ百年の星霜を重ねた一九九一年の九月二十七日、日本を襲いし台風十九号は各地に未曾有の大災害をもたらす。 山林家屋河川社寺の倒壊破損は甚大。当山の本堂庫裏は明治再建以来の老朽化と重なり被害はことさらに深刻。 ときに全門徒の浄刹復興の志願は熱く燃ゆ。裏参道の整備に始まり、本堂は基礎と屋根の大改築をなし瓦を葺き替える。 庫裏は新築 工事は三年の月日を要し、一九九四年秋 奇しくも明治再建からちょうど百年目に全容を新たに当山珀明寺 は甦った。一九九四年十一月二十三日、二十四日の両日、全門徒有縁の人々、感動の内に親鸞聖人御誕生八百年立教 開宗七百五十年慶讃法要、珀明寺再建百周年祝賀法要、本堂 庫裏等修改築奉祝法要、十七代住職継職奉告法要を 勤修新たに山門護持が誓われた。真なるかな「遠慶宿縁」の聖言 一九九四年十一月 十七代住職 釈 行泉 謹記→ →本堂全景。→

 

珀明寺7 珀明寺8
本堂 本堂
→本堂正面入口。→ →本堂内の須弥壇の景色。この御本尊様は二代目。初代は庫裏の御内仏として祀っている。→

 

珀明寺9 珀明寺10
本堂 本堂
→本堂内の景色。→ →本堂内の景色。→

 

珀明寺11 珀明寺12
本堂 本堂
→本堂内の景色。「真宗宗歌」。→ →本堂内の景色。「恩徳讃」。→

 

珀明寺13 珀明寺14
鐘楼 鐘楼
→鐘楼全景。→ →梵鐘。→

 

珀明寺15 珀明寺16
境内 庫裏
→境内の石碑。→ →庫裏全景。→

 

 

 

 徳光山 明円寺

宗旨  真宗大谷派

本尊  阿弥陀如来

住所  〒871-0716 大分県中津市山国町中摩3491

明円寺1 明円寺2
案内看板 掲示板
真宗大谷派(東本願寺)徳光山 明円寺。→ →衆生の迷い 根本は我見なり(仏陀のことば)。報恩講のお知らせ。。→

 

明円寺3 明円寺4
参道 案内
→参道開通碑。→ →明圓寺の歴史 明圓寺は浄土真宗(宗祖親鸞聖人)大谷派の寺院で山号を徳光山 といい、木像阿弥陀如来を本尊としている。当寺はもと一平の方にあって天台宗であったが、釋周圓が本願寺第8代 宗主蓮如上人の教えを受け改宗。永正2年(1505)に当地に移り蓮如上人の本字名号「南無阿弥陀仏」(現存)を 本尊として開かれた寺であります。本願寺が東西に分派した時は西派に属し、本願寺第12代准如上人より寛永2年 (1625)に阿弥陀如来絵像本尊(現存)が下付された。現在の木像阿弥陀如来本尊は元禄時代(1688〜1703)に本願寺 より下付され安置されたものです。作者は慶派の仏師「康雲」であります。元文3年(1738)に如何なる理由か本願寺派 (西本願寺)より大谷派(東本願寺)に転派し、現在は大谷派の寺院であります。本堂は万延元年(1860)に焼失し、 現在の御堂は慶応3年(1866)に再建されたものです。再建当初は茅葺き屋根であったが、2回の大改修により現在の 瓦屋根の伽藍となりました。森春樹著「亀山抄」文政13年(1831)の記録には当寺に豊臣秀吉の子 秀頼・秀次が 立ち寄られたとある。付き人であった後藤又兵衛基次が現耶馬渓町伊福に住み墓があることや、秀吉の家来の野田弥六 正路(山国町狩宿)が大阪夏の陣に出陣の後帰郷し大蔵神社(山国町守実)に村雨太刀奉献したの事、秀吉と毛谷村 六助の事等と併せて考えると大変興味深い。境内には第16代住職寂静の石碑があり、寺の再建や子弟・門信徒の教化に 尽す。また、堕胎禁止・捨て子の養育を松方正義(日田県知事・後に総理大臣)に進言。碑文は額を南条文雄・選文は 吉田増蔵(学軒)教育者で儒医として種痘を二豊に広めた村上姑南の位牌も当寺にある。現住職は19代に当る。→

 

明円寺5 明円寺6
山門 山門
→石階段を上ると山門があります。→ →山門を境内側から見ると。→

 

明円寺7 明円寺8
本堂 本堂
→本堂全景。→ →本堂入口正面。本日は報恩講が催されています。→

 

明円寺9 明円寺10
本堂 本堂
→本堂の景色。→ →本堂の景色。→

 

明円寺11 明円寺12
鐘楼 境内
→鐘楼全景。→ →境内の景色。→

 

明円寺13 明円寺14
境内 境内
→境内の景色。→ →境内の景色。→

 

明円寺15
庫裏
→庫裏全景。→

 

 

 

 妙法山 真浄寺

宗旨  日蓮宗

本尊  

住所  〒871-0716 大分県中津市山国町中摩6315

真浄寺1 真浄寺2
鐘楼 鐘楼
鐘楼全景。→ →梵鐘。→

 

真浄寺3 真浄寺4
本堂 本堂
→本堂全景。→ →本堂を石階段したから見る。→

 

真浄寺5 真浄寺6
本堂 本堂
→本堂全景を右から。→ →本堂に架かる「妙法山」の扁額。→

 

真浄寺7 真浄寺8
庫裏 庫裏
→庫裏全景。→ →庫裏正面玄関。→

 

真浄寺9 真浄寺10
子安地蔵堂 子安地蔵堂
→子安地蔵堂全景。→ →子安地蔵堂内の景色。→

 

真浄寺11 真浄寺12
境内 境内
→境内のしだれ桜。開花の時期に訪れてみましょう。→ →境内のしだれ桜。開花の時期に訪れてみましょう。→

 

 

 

 日照山 教順寺

宗旨  浄土真宗本願寺派

本尊  阿弥陀如来

住所  〒871-0702 大分県中津市山国町草本461

教順寺1 教順寺2
教順寺掲示板 教順寺の歴史
二〇一八(平成三〇)年行事予定が書かれています。→ →教順寺は浄土真宗本願寺派(お西)の寺院。享保元(1716)年の『教順寺略縁起』 に、中世後期(室町時代)に禅宗の長福寺と号し、そこの僧 石伝(岩)が、浄土真宗本願寺9世実如上人(1458〜 1525)に帰依し、了正と名乗ったとある。大分県で年代のわかるもので3番目くらい古い、戦国期永正6(1509)年 9月3日の実如上人裏書年号をもつ、開基仏『方便法身尊像』が教順寺に現存する。本像の裏書には「仏照寺門徒豊前 国下毛郡溝辺郷 草本村 願主了正」とあり、当初は本願寺直属ではなく、瀬戸内海を経て筑後川や山国川など各地 の河川をさかのぼるように広がったという真宗教団の内、大阪茨木の仏照寺(中世の真宗では本願寺をしのぐ勢力が あったという仏光寺の系統の寺院」を介して本願寺と関係を持ったと見られる。その後、年号を確認できるものは 江戸時代初頭、慶長10(1605)年の年号のある『蓮如上人(真影)御影像』で裏書によれば、下付者は本願寺12世 准如上人(1577〜1631)で、「仏照寺門徒明蓮寺下(中略)教順寺常什持也」と次第に整備されていく本末関係t寺号 が確認できる。このほか、『親鸞聖人御影』(裏書は破損判読不明)、『聖徳太子御影』、『七高僧御影』80cmクラス の比較的大きな木仏本尊(本山前住御影と合わせ五尊という)があるが裏書等がないため下付時期は不明。また、『寺院 明細簿』(1901年)に、寛文9(1669)年の本願寺前住『良如上人(1612〜62 13世)御影像』(願主霊山 教順寺第 7代)、宝永2(1705)年の本願寺14代寂如上人(1651〜1725)下付『大谷本願寺親鸞聖人之縁起』(「御絵伝」教順寺 第9代恵俊)などが記録され(現存)、この恵俊代の享保期(1716〜35)に、本堂が整備が進み、境内正面二基の灯籠 にも享保11(1726)年の年号が確認できる。幕末維新には、学僧で名を馳せた教順寺15代宣正が出る。宣正は豊前 浄光寺(中津市今津)の月珠(1795〜1856)に師事して宗学を納め、月珠の没後は塾生を指導し、のち西本願寺の学林 に学ぶ。文久2(1862)年教順寺に入寺し、今日に続く百段を超える石段、袴腰付きの単層の鐘楼、組み物で支え、 欄間彫刻と虹梁先木鼻に獏鼻と獅子鼻で装飾する四脚門など寺の景観を整備。学塾(寄進額現存)を設置し多くの 子弟を育成、1875(明治8)年司教、1880年の没後、1890(明治23)年本山から勧学(本願寺学僧の最高位)を追贈。 石段前の念仏橋も当初、。川向こうの門徒宗の参拝の利便性向上のため宣正が架橋した。教順寺は指定文化財は皆無 だが、500年を超え門徒、歴代住職が守ってきた信心の証としての寺宝、建造物が残る。経蔵に近世からの版本、大分県 立博物館の古文書整理により、近世後期からの314点余りの『教順寺文書』が確認されている。→

 

教順寺3 教順寺4
教順寺上がり口看板 石階段
→石階段が73m続きます。→ →120段の石階段。いざ 上りましょう。→

 

教順寺5 教順寺6
石階段 山門
→上りきって見下ろすと結構爽快かも。ひ〜〜、疲れた。→ →欄間彫刻と虹梁先木鼻に獏鼻と獅子鼻で装飾する四脚門。→

 

教順寺7 教順寺8
山門 山門
→家紋入り門扉。→ →家紋入り門扉。→

 

教順寺9 教順寺10
山門 山門
→山門に架かる 浄土真宗本願寺派 日照山 教順寺 の表札。→ →山門の欄間。→

 

教順寺11 教順寺12
山門 山門と鐘楼
→横からみると四脚門がよく分かる。→ →山門と鐘楼が並び建つ。→

 

教順寺13 教順寺14
鐘楼 鐘楼
→袴腰付きの単層の鐘楼。→ →袴腰付きの単層の鐘楼。→

 

教順寺15 教順寺16
本堂 本堂
→本堂全景。→ →本堂正面入口。→

 

教順寺17 教順寺18
本堂 本堂
→本堂内の傳翁(四九七〜五六九)について書かれてある。→ →傳大士と二子(普建、普成)の像。→

 

教順寺19 教順寺20
本堂 本堂
→本堂内の景色。→ →本堂内の須弥壇の景色。→

 

教順寺21 教順寺22
本堂 本堂
→本堂内の景色。→ →本堂内の景色。→

 

教順寺23 教順寺24
本堂 本堂
→本堂内の景色。→ →本堂を左前から。→

 

教順寺25 教順寺26
本堂 門信徒会館
→本堂右側面。→ →門信徒会館全景。→

 

教順寺27 教順寺28
門信徒会館 門信徒会館
→門信徒会館全景。→ →門信徒会館に架かる表札。→

 

教順寺29
経蔵
→経蔵全景。→

 

 

 

 陽雲寺

宗旨  

本尊  

住所  〒871-0702 大分県中津市山国町守実

陽雲寺1 陽雲寺2
鐘楼 鐘楼
鐘楼全景。→ →鐘楼全景。→

 

陽雲寺3 陽雲寺4
鐘楼 鐘楼
→鐘楼全景。→ →梵鐘。→

 

陽雲寺5 陽雲寺6
本堂 本堂
→本堂全景。→ →本堂正面。→

 

陽雲寺7 陽雲寺8
本堂 本堂
→本堂に架かる半鐘。→ →本堂前に置かれた賽銭箱。→

 

陽雲寺9 陽雲寺10
境内 境内
→手水。→ →地蔵さまのお顔が大分風化している。→

 

陽雲寺11
庫裏
→庫裏全景。→

これで中津市のお寺さん巡りはおしまいです。