中津市のお寺さん巡り

城下町中津と旧市街、新市内、旧下毛郡内のお寺さん紹介
中津市には数多くのお寺さんがあります。中津城とその城下町を造る際に東側の外堀に沿ってお寺が隣接した
寺町を作り、また その外周部にもお寺を配置することによって、中津城下町を守る防御線となりました。 お寺の裏側に土塁を設け、その外側に外堀があるので 外敵の侵入を阻んだと思われます。今では 道路事情も変わり 昔のなごりは少なくなりましたが、ふと目にした一枚の写真から何かを感じ取って頂けたら幸いです。

地域 中津市下正路

 龍隠山 安全寺

宗旨  曹洞宗

本尊  

住所  〒871-0097 大分県中津市下正路457

安全寺1 安全寺2
案内 山門
耳かじりに書かれた内容が書かれています。→ →山門全景。→

 

安全寺3 安全寺4
鐘楼 鐘楼
→鐘楼全景。→ →梵鐘。→

 

安全寺5 安全寺6
本堂 本堂
→本堂全景。→ →本堂に掲げられた「龍隠山」の扁額。→

 

安全寺7 安全寺8
本堂 本堂
→本堂内に掲げられた「龍隠山」の扁額。→ →本堂内の景色。→

 

安全寺9 安全寺10
本堂 本堂
→賓頭盧頗羅堕(ビンヅルハラダ) 略名 賓頭盧尊者。→ →賓頭盧頗羅堕 十六羅漢のお一人にて通称を「なで佛」と云われ 自分の痛い部分に触って像をなでると御利益ありとの伝説があります。→

 

安全寺11 安全寺12
境内 境内
→境内の景色。→ →境内の景色。→

 

安全寺13 安全寺14
境内 境内
→更生保護の創始者 川村矯一郎顕彰碑。→ →川村矯一郎顕彰の由縁 川村矯一郎は嘉永五年中津に生まれ 渡辺重石丸に学んだ増田宋太郎らと 国事に奔走 明治十年立志社の獄に座し 静岡県監獄に投獄された。獄中 監獄改良・釈放者保護を志し出獄の後  金原明善と共に静岡県下に勧善会を興し監獄署長に挙げられるに及び二十一年静岡県出獄人保護会社を設立 県下一円に保護委員を委嘱し更生保護施設を設置した。同会は わが国最初の更生保護会であるとともに保護司制度の 源流となり 今日の更生保護への道を切り拓いた。川村は明治二十四年激務に倒れ三十八歳にしてこの世を去った。 郷土の先人の博愛慈善の功業に敬慕の念止み難く ここに顕彰の碑を建つ。建立実行委員会→

 

安全寺15 安全寺16
境内 境内
→地蔵尊像。→ →法華経千部供養塔及び石仏。→

 

安全寺17 安全寺18
境内 境内
→境内の景色。→ →境内の景色。→

次は浦町を訪ねてみましょう。

地 域 別
耳かじり

創建の時は龍穏山涼雲寺(りゅうおんざん りょううんじ)と称していました。 天正15(1587)年、黒田孝高が入国し堂于を建立、寺領二町歩を授けられたと伝えられています。 慶長5(1600)年、黒田氏が筑前に去った後、細川忠興が入国し安全寺と改称、、 禅一国師国嵬宗珍大和尚(ぜんいちこくしこっかいそうちんだいおしょう)を開祖とします。 山号「龍穏山」の額面は、黄檗宗即非和尚(おうばくしゅうそくひおしょう)の題字で有名です。 かつては末寺十二ヶ寺を持ち、小本寺地方録寺司の寺格でした 堂内に通称”なで仏(びんづる尊者)”の像があります。

墓地には、奥平家墓所、大身格や家老職の生田家、山崎家、剣術家の中西藤九郎・源太、 豪商の紙屋右衛門・村屋・錺屋などの墓や、儒者の野本雪巌・白巌父子、 蘭医で蘭学者の大江春塘、西南の役中津隊隊長の増田宋太郎、 更生保護事業開拓者の川村(矯一郎)家、医師の藤野玄洋などのの墓があります。

野本雪巌 1761〜1834

江戸後期の儒学者。中津藩儒官。現在の院内町に生まれる。原田東岳や倉成龍渚に学び京都に遊学。 倉成龍渚と藩校進脩館の創立につくした。

野本白巌 1797〜1856

江戸時代末期の儒学者。中津藩儒官。野本雪巌の長男として現在の院内町に生まれる。 父雪巌や帆足万里に学び、京都で頼山陽に文章を学ぶ。儒学以外にも万里の影響で窮理学、算術、医術にも通じた。

大江春塘 1787〜1844

江戸時代後期の蘭学者、中津藩医。藩主奥平昌高によって出版された「中津バスタード辞書」(蘭日辞書)を、 オランダ通詞で蘭学者の馬場佐十郎の協力を得て奥平昌高とともに編纂した。

藤野玄洋 1840〜1887

明治期の医師。幼名貞治として中津に生まれる。広瀬淡窓、青村に漢学を学び、大阪医学校や 長崎でボドウィンに医学を学ぶ。下関で月波楼医院を開業し、入浴療法を行うため超然亭という 薬湯場を設けた。これが後の春帆楼となり、日清戦争の講和会議の舞台をなった。

増田宋太郎 1849〜1877

明治期の民権家、西南の役中津隊隊長。親戚の渡辺重石丸の道生館で国学を学ぶ。 中津で創刊された田舎新聞の初代編集長として自由民権を説く。西南の役で中津隊を結成し、 西郷軍に加わり、鹿児島城山で戦死した。墓は安全寺のほか、鹿児島市の城山の南洲墓地にもある。

川村矯一郎 1852〜1891

明治の民権家、社会事業家。増田宋太郎の同志。渡辺重石丸に国学を学ぶ。土佐の立志社の 政府高官暗殺計画に加担して投獄される。釈放後、監獄改良や出所した人々を保護する 更生保護事業に尽力した。

中津市教育委員会
中津の郷土史を語る会

中津下祇園で有名な闇無浜神社の手前、下正路に古刹 安全寺があります。 安全寺は古来、闇無浜豊日別宮(現在の闇無浜神社)の社僧であり、 涼雲寺と称して天台宗の寺院でした。