中津市のお寺さん巡り

城下町中津と旧市街、新市内、旧下毛郡内のお寺さん紹介
中津市には数多くのお寺さんがあります。中津城とその城下町を造る際に東側の外堀に沿ってお寺が隣接した
寺町を作り、また その外周部にもお寺を配置することによって、中津城下町を守る防御線となりました。 お寺の裏側に土塁を設け、その外側に外堀があるので 外敵の侵入を阻んだと思われます。今では 道路事情も変わり 昔のなごりは少なくなりましたが、ふと目にした一枚の写真から何かを感じ取って頂けたら幸いです。

地域 中津市寺町

  寶池山  西蓮寺

宗旨  浄土真宗本願寺派

本尊  

住所  〒871-0075 大分県中津市寺町998

西蓮寺1 西蓮寺2
石表柱 山門
浄土真宗 本願寺派 寶池山 西蓮寺。→ →山門全景。→

 

西蓮寺3 西蓮寺4
本堂 本堂
→本堂全景。→ →本堂正面を見上げてみる。太鼓。→

 

西蓮寺5 西蓮寺6
案内 寺町 この町について
→左記 耳かじりの内容が書かれています。→ →中津城総曲輪内の東側に在って島田口と蛎瀬の中程に城下防備を目的に 造られた町。ここ 「寺町《には、黒田入封以前からの地蔵院・安随寺、細川藩時代の普門院・宝蓮坊・ 本伝寺、小笠原藩時代の円竜寺・浄安寺そして奥平藩時代の松厳寺の計十二ケ寺がある。
一家は習慣の学校なり 父母は習慣の教師なり 「福澤文集《巻之一 北部校区青少年健全育成協議会→

 

西蓮寺7
西蓮地創立沿革・縁記
→一読してね。→

 

 

 

  正寿山  浄安寺

宗旨  浄土宗

本尊  

住所  〒871-0075 大分県中津市寺町995

浄安寺1 浄安寺2
行燈 山門
浄土宗 浄安寺。→ →山門全景。→

 

浄安寺3 浄安寺4
白壁塀 案内
→白壁が続く。→ →左記 耳かじりの内容が書かれています。→

 

浄安寺5 浄安寺6
本堂 本堂
→本堂全景。→ →本堂正面を見上げてみる。→

 

浄安寺7 浄安寺8
廟廊 境内
→廟廊全景。→ →境内の景色。→

 

浄安寺9
境内
→境内の景色。→

 

 

 

  岡谷山  圓龍寺

宗旨  浄土宗

本尊  阿弥陀如来

住所  〒871-0075 大分県中津市寺町991

圓龍寺1 圓龍寺2
案内 山門
左記 耳かじりの内容が書かれています。→ →山門表札。→

 

圓龍寺3 圓龍寺4
山門 山門
→山門全景。→ →山門に架かる扁額。→

 

圓龍寺5 圓龍寺6
本堂 本堂
→本堂全景。→ →本堂に架かる扁額。手前に「岡谷山《奥に「浄蓮院《。→

 

圓龍寺7 圓龍寺8
本堂 本堂
→本堂に架かる表札。全然 読めませーーん。→ →本堂に架かる表札。全然 読めませーーん。→

 

圓龍寺9 圓龍寺10
観音堂・閻魔堂 観音堂・閻魔堂
→観音堂・閻魔堂全景。→ →観音堂・閻魔堂を正面から。→

 

圓龍寺11 圓龍寺12
観音堂・閻魔堂 観音堂・閻魔堂
→観音堂左側。→ →観音堂右側。→

 

圓龍寺13 圓龍寺14
観音堂・閻魔堂 観音堂・閻魔堂
→左に三つ葉葵の紋が見える。→ →観音堂内部の子安観世音菩薩像。→

 

圓龍寺15 圓龍寺16
閻魔堂 閻魔堂
→閻魔堂内の景色。→ →閻魔大王と葬頭河婆(奪衣婆)。→

 

圓龍寺17 圓龍寺18
閻魔堂 閻魔堂
→吊るされた梵音具。→ →左記 耳かじりの内容が書かれています。→

 

圓龍寺19 圓龍寺20
閻魔堂 閻魔堂
→干支が描かれた瓦。子丑寅。→ →干支が描かれた瓦。卯辰巳。→

 

圓龍寺21 圓龍寺22
閻魔堂 閻魔堂
→干支が描かれた瓦。午羊申。→ →干支が描かれた瓦。酉戌亥。→

 

圓龍寺23 圓龍寺24
境内 境内
→六地蔵像。→ →詩が書かれてあるんだけど 拙者には読めませぬ。御免。→

 

 

 

  鏡智山  円応寺

宗旨  浄土宗鎮西派

本尊  阿弥陀如来

住所  〒871-0075 大分県中津市寺町961-2

円応寺1 円応寺2
山門 山門
山門全景。→ →山門に架かる 浄土宗 鏡智山 円応寺 の表札。→

 

円応寺3 円応寺4
案内看板 本堂
→円応寺について。一読できると思います。→ →山門を入った所から本堂全景を望む。→

 

円応寺5 円応寺6
鐘楼 梵鐘
→鐘楼全景。→ →見事な梵鐘が吊るされています。→

 

円応寺7 円応寺8
本堂 円応寺の由来
→本堂を正面から。→ →左記 円応寺の由来 の内容が書かれています。→

 

円応寺9
河童の墓と水文瓦
→左記 河童の墓と水文瓦 の内容が書かれています。→

 

円応寺11 円応寺12
観音堂 観音堂
→観音堂全景。→ →観音堂内の十一面観世音菩薩坐像。→

 

円応寺13 円応寺14
河童の墓 河童の墓
→河童の墓全景。本堂の裏手にあります。案内矢印に沿って行けばよいです。→ →河童の墓と称される五輪塔。→

 

円応寺15 円応寺16
河童の池 河童の池
→河童の池全景。→ →筆者が訪ねた時は時期が悪かったのか池には水が無かったです。→

 

 

 

  眞浄山  大法寺

宗旨  日蓮派一致派

本尊  

住所  〒871-0075 大分県中津市寺町966

大法寺1 大法寺2
門柱 今月の聖語
境内入口に大きな門柱があります。→ →母の 赤子の口に 乳を入れんと はげむ慈悲なり。→

 

大法寺3 大法寺4
大法寺の由来 山門
→左記、大法寺の由来 の内容が書かれています。→ →一礼して山門を通ります。→

 

大法寺5 大法寺6
鐘楼 鐘楼
→鐘楼全景。→ →鐘楼をまじかに見る。→

 

大法寺7 大法寺8
本堂 本堂
→本堂全景。→ →本堂正面。→

 

大法寺9 大法寺10
本堂 本堂
→本堂内の須弥壇。→ →天井から下がる結界。→

 

大法寺11 大法寺12
本堂 本堂
→本堂内の景色。→ →本堂内の景色。→

 

大法寺13 大法寺14
浄池宮 浄池宮
→浄池宮全景。→ →浄池宮正面。→

 

大法寺15 大法寺16
浄池宮 浄池宮
→浄池宮内の景色。→ →清正公お姿。→

 

大法寺17 大法寺18
浄池宮 浄池宮
→浄池宮内 開祖のお姿か?。→ →浄池宮内 七福神 大国様。→

 

大法寺19 大法寺20
浄池宮 浄池宮
→浄池宮内の景色。→ →浄池宮内に架かる扁額。→

 

大法寺21 大法寺22
浄池宮 浄池宮
→浄池宮内 清正公の武将姿絵。→ →浄池宮内 おみくじ額 一吉、二末吉、三吉、四凶、五吉、六凶、七吉、八凶、九大凶、拾吉、十一末吉、十二大吉。→

 

大法寺23 大法寺24
浄池宮(清正公大神祇) 最上位経王大菩薩
→(清正公様)ご縁日 23日 24日 肥後熊本城主加藤清正公をお祭りする寺堂です。文武両道、学業成就、開運勝利の功徳が得られます。  祈願文 除其衰患・令徳安穏・遊行無畏・如師子王・南無妙法蓮華経とお唱え下さい。→ →最上稲荷さま 鳥居。→

 

大法寺25 大法寺26
最上位経王大菩薩 最上位経王大菩薩
→最上稲荷さま全景。→ →(最上稲荷さま)ご縁日 15日 20日 稲束は五穀の主で、最上様は食糧をもって我々の生活を守護し又労働を守護して下さいます。  五穀豊穣、商売繁盛、開運招福の功徳が得られます。 祈願文 百穀苗稼甘蔗葡萄・無量無数・荘厳其国・南無妙法蓮華経とお唱え下さい。→

 

大法寺27 大法寺28
浄行さま 浄行さま
→浄行さま御社全景。→ →浄行さま お姿。→

 

大法寺29 大法寺30
浄行さま(洗い仏、除病得福) 秋山堂(しゅうざんどう)
→浄行さまは人間生活の中でも一番大切な健康を守る菩薩さまです。この浄行菩薩は生存者の身体に楽を与え苦を除く神通力を発揮する仏さまです。  例えば足の悪い人は浄行さまの足の部分を念入りに洗い、又、腰を病む人は浄行様の腰の部分をよく洗い、磨きたて強く念ずれば必らずや所願成就六根清浄が得られます。  (身体健全六根清浄当病平癒南無妙法蓮華経と唱え願かけしお洗い下さい。)→ →秋山堂全景。→

 

大法寺31 大法寺32
秋山堂(しゅうざんどう) 秋山堂(しゅうざんどう)
→秋山堂に架かる表札。→ →秋山堂内の景色。→

 

大法寺33 大法寺34
秋山自雲霊神 鬼子母尊神
→(秋山様)ご縁日 21日 秋山様は人々の腰より下の病い、特に婦人病の平癒に功徳が有る神様です。 祈願文 有大筋力 行歩平正 是好良薬 今留在之 即取朊之 毒病皆癒 南無妙法蓮華経とお唱え下さい。→ →日蓮宗 真浄山 大法寺 子安 安産 除災 招福 鬼子母尊神。→

 

大法寺35 大法寺36
鬼子母尊神 鬼子母尊神
→鬼子母尊神正面。→ →鬼子母尊神側面。→

 

 

 

  本流山  本傳寺

宗旨  法華宗(本門流)

本尊  「十界勧請大曼荼羅《

住所  〒871-0075 大分県中津市寺町970

本傳寺1 本傳寺2
掲示板 表柱
一心伝道 日蓮大聖人の教えを 正しく今に伝える 法華宗。→ →南無妙法蓮華経。→

 

本傳寺3 本傳寺4
山門 山門
→山門全景。→ →山門に架かる 法華宗 本傳寺 の表札。→

 

本傳寺5 本傳寺6
本堂 本堂
→本堂全景。→ →本堂正面に架かる鰐口。→

 

本傳寺7 本傳寺8
境内 境内
→上人像。→ →宗祖を刻む石碑。→

 

本傳寺9 本傳寺10
境内 境内
→境内から山門を見る。→ →境内の椿と山門。→

 

 

 

  智光山  合元寺

宗旨  西山浄土宗

本尊  阿弥陀如来

住所  〒871-0075 大分県中津市寺町973

合元寺1 合元寺2
赤壁 山門
黒田官兵衛の時代から伝わる血塗られた色の赤壁。→ →山門全景。→

 

合元寺3 合元寺4
山門 山門
→山門前の石表柱。→ →山門を見上げてみると。→

 

合元寺5 合元寺6
合元寺案内 山門の刀傷?
→黒田官兵衛が姫路から恵心僧都(えしんそうず)作と伝わる阿弥陀如来を移して、 空誉上人という僧を開山に迎えて寺院を建立しました。黒田氏の入国に反対した宇都宮鎮房が中津城内に誘殺された時、 鎮房の従臣たちが待機していたこの合元寺にも黒田の手勢が押しかけました。鎮房の従臣は奮戦しましたが、 ことごとく斬り伏せられ、壁はその血で赤く染まったそうです。その後壁は何度白く塗っても血が染み出したくるので、 ついに赤く塗ったをいいます。寺は赤壁寺ともよばれています。 中津市教育委員会。→ →当時の激しい奮戦の吊残か、刀傷らしきものが数か所に見受けられる。→

 

合元寺7 合元寺8
鐘楼 合元寺由来
→鐘楼全景。→ →左記 赤壁 合元寺 の内容が書かれています。→

 

合元寺9 合元寺10
本堂 本堂
→本堂全景。→ →本堂に架かる半鐘。→

 

合元寺11 合元寺12
本堂 本堂
→外側の戸を開けると中廊下があります。→ →中廊下の本堂入口に架かる 智光山 の扁額。→

 

合元寺13 合元寺14
本堂 本堂
→中廊下天井から下がる太鼓。→ →中廊下天井から下がる駕籠。→

 

合元寺15 合元寺16
本堂 本堂
→本堂内正面の景色。→ →御本尊 阿弥陀如来座像。→

 

合元寺17 合元寺18
本堂 本堂
→本堂内に架かる扁額。→ →本堂内の景色。→

 

合元寺19 合元寺20
本堂 本堂
→本堂内の景色。→ →本堂内の景色。→

 

合元寺21 合元寺22
本堂 本堂
→本堂内の景色。→ →本堂内の景色。→

 

合元寺23 合元寺24
延命地蔵菩薩堂 延命地蔵菩薩堂
→延命地蔵菩薩堂全景。→ →延命地蔵菩薩堂の景色。→

 

合元寺25 合元寺26
延命地蔵菩薩堂 延命地蔵菩薩堂
→延命地蔵菩薩堂内の景色。→ →延命地蔵菩薩堂内の景色。→

 

合元寺27 合元寺28
延命地蔵菩薩堂 経蔵
→延命地蔵菩薩堂内の景色。→ →経蔵全景。→

 

合元寺29 合元寺30
境内 境内
→六地蔵像。→ →石塔。→

 

合元寺31
境内
→境内の景色。→

 

 

 

  満年山  松厳寺

宗旨  臨済宗妙心派

本尊  釈迦如来

住所  〒871-0075 大分県中津市寺町974

松厳寺1 松厳寺2
山門 山門
山門全景。→ →山門に架かる 松厳寺 の表札。→

 

松厳寺3 松厳寺4
山門 本堂
→山門に架かる 奥平昌明章公実父母 五島淡路守盛勝 アキ菩提所の表札。→ →本堂全景。→

 

松厳寺5 松厳寺6
本堂 本堂
→本堂前の庭。→ →本堂正面を見上げる。→

 

松厳寺7 松厳寺8
本堂 境内
→本堂正面に架かる扁額。→ →ふむふむ。なるほど そうか 私には読めませぬ。→

 

松厳寺9 松厳寺10
境内 境内
→境内景色。→ →お堂。→

 

松厳寺11 松厳寺12
境内 境内
→お堂に架かる扁額。→ →境内景色。→

 

 

 

  地蔵院

宗旨  

本尊  

住所  〒871-0075 大分県中津市寺町983

地蔵院1 地蔵院2
石表柱 手水
地蔵院の銘がある。寺院としてはもう無いみたいだ。→ →手水で清めて。→

 

地蔵院3 地蔵院4
地蔵堂 地蔵堂
→地蔵堂全景。→ →地蔵堂を右から。→

 

地蔵院5 地蔵院6
地蔵堂 地蔵堂
→地蔵堂内の景色。→ →地蔵像。→

 

 

 

  獅子吼山  安随寺

宗旨  真宗大谷派

本尊  

住所  〒871-0075 大分県中津市寺町981

安随寺1 安随寺2
境内跡 蛭子宮
あれれ。お寺さんが無くなっている。→ →境内跡のすぐ前にお宮が有りました。→

 

安随寺3 安随寺4
蛭子宮 蛭子宮
→蛭子宮全景。→ →蛭子宮に架かる扁額。→

 

 

 

  獅子吼山  宝蓮坊

宗旨  真宗大谷派

本尊  

住所  〒871-0075 大分県中津市寺町980

宝蓮坊1 宝蓮坊2
鐘楼門 鐘楼門
鐘楼門全景。→ →鐘楼門に架かる 真宗大谷派 寶蓮坊 の表札。→

 

宝蓮坊3 宝蓮坊4
宝蓮坊の由来 太子門
→左記 宝蓮坊の由来 の内容が書かれています。→ →太子門全景。→

 

宝蓮坊5 宝蓮坊6
手水舎 本堂
→手水舎全景。→ →本堂全景。→

 

宝蓮坊7 宝蓮坊8
本堂 本堂
→本堂正面。→ →本堂正面に架かる 獅子吼山 の扁額。→

 

宝蓮坊9 宝蓮坊10
本堂 本堂
→本堂内の景色。→ →本堂内の御本尊像。→

 

宝蓮坊11 宝蓮坊12
本堂 本堂
→本堂内の景色。→ →本堂内の景色。→

 

宝蓮坊13
庫裏
→庫裏全景。→

 

 

 

  慈眼山  普門院

宗旨  高野山真言宗

本尊  如意輪観世音菩薩

住所  〒871-0075 大分県中津市寺町978

普門院1 普門院2
全景 全景
木々に囲まれた全景。→ →木々に囲まれた全景→

 

普門院3 普門院4
参道 表札
→参道入口。→ →高野山真言宗 普門院の表札。→

 

普門院5 普門院6
本堂 本堂
→本堂を正面から。境内は静かです。→ →九州八十八ヵ所第十九番霊場の表札が架かっています。→

 

普門院7 普門院8
本堂内 本堂内
→本堂内の様子。→ →御本尊の如意輪観世音菩薩座像。→

 

普門院9 普門院10
本堂内 本堂内
→本堂内の様子。→ →本堂内の様子。→

 

普門院11 普門院12
境内 境内
→境内の正一位稲荷大明神の鳥居。→ →境内の正一位稲荷大明神の社。→

 

普門院13 普門院14
境内 境内
→大師堂。→ →大師堂内の大師。→

 

普門院15 普門院16
境内 境内
→地蔵像。→ →地蔵像。→

 

普門院17 普門院18
境内 境内
→地蔵像。→ →修行大師堂。→

 

普門院19 普門院20
境内 境内
→修行大師堂。→ →修行大師堂。→

 

普門院21 普門院22
境内 境内
→境内景色。→ →境内景色。→

 

普門院23 普門院24
境内 境内
→境内景色。→ →境内景色。→

 

普門院25 普門院26
境内 お接待
→境内景色。→ →お接待菓子を頂きました。合掌。→

 

 

 

  蓮正寺

宗旨  華厳宗

本尊  

住所  〒871-0075 大分県中津市寺町712

    訪れてみましたが 見当たりませんでした。


次は鷹匠町を訪ねてみましょう。

地 域 別
耳かじり

黒田官兵衛考高(黒田如水)公 ゆかりの寺

浄土真宗本願寺派 寶池山(ほうちざん) 西蓮寺(さいれんじ)

西蓮寺は天正十六年(一五八八年)に光心師によって開創された。
光心師の俗吊は、「黒田市右衛門《であり、黒田孝高公の末弟で父・黒田美濃守職隆公の逝去時に出家した。
黒田孝高公が播州から豊前中津に入国の際に兄・孝高公の御徳を慕い共に中津に入り、 寺町に西蓮寺を建立し、初代住職となったのである。
以来、四百二十年以上の長きに亘り、現第二十代住職までこの地で法灯を伝えている。
現在の本堂は、天保十四年(一八四四年)に再建されたもので、金剛棟札を見ると、 発起人は8歳の童子「播磨屋助次郎《(はりまやすけじろう)とある。
この童子が山国川から小石を運び立派な本堂を建てる用意をしていることを聞き、 総代・小幡親民(おばたちかたみ)は深く感激し再建に尽力した。
この本堂は、再建当時藩主であった第八代奥平昌朊(おくだいらまさもと)公が度々お茶会を催した場所でもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

耳かじり

正寿山(しょうじゅざん) 浄安寺(じょうあんじ)

浄安寺は、寛永十七年(一六四〇)小笠原長継の菩提を弔うため、長男の小笠原政直が建立したと伝えられています。
正徳五年(一七一五)九月、本堂と鐘楼は焼失しました。
現在の本堂は、文化八年(一八一一)船町の豪商 井筒屋勘之助高道(いづづやかんのすけたかみち)の寄進により、 再建されたものです。
浄安寺境内の墓所には、次のような墓などがあります。
・和田豊治の墓(富士紡績で活躍し後社長となる。中津に和田奨学金を設けた。)
・神官で渡辺重吊以降代々国学者が続いた渡辺家の合葬墓
・福澤諭吉が一時養子になったこともある中村術平の墓
(術平は、福澤百助の実弟で中村家に養子になった)
・中津藩の祐筆で書家の磯田崇山・東郭の墓
・書家の中村寿山の墓。墓碑は福澤百助の撰である。

小笠原長継

慶長九年(一六〇四)没。法号心誉浄安寺殿。小笠原中興の祖で中津小笠原の祖でもある。
松本城主貞慶の従弟にあたり五千貫の分地を受けた。

       中津市教育委員会

七観音六番札所

七観音参りは千日観音との呼ばれ、古くは京都・清水寺に始まる「千日参り《に起源を発し、 江戸時代初期より民意の信仰をあつめ今日に至る。八月九日に参拝すれば千日の功徳があると 言い伝えられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

耳かじり

閻魔さんのお寺

 岡谷山(おかやさん)圓龍寺(えんりゅうじ)

当山は寛永年間に小笠原長次公が播州龍野(七万石)から中津藩主として入国したとき、 専譽上人(せんよししょうにん)を開山として開いた。 阿弥陀如来を本尊にまつる。
山門を入って左手に観音堂、閻魔堂があり子安観世音菩薩、右手奥に閻魔さまと葬頭河婆(そうずかのうば) (奪衣婆)(だつえば)が安置され、老若男女から恐れられ、親しまれ大衆を仏心へ導いてくださるという 民俗信仰が伝承されている。
また、境内の墓地には小笠原、奥平家の家臣や水島銕也、南画の片山九畹の墓がある。

   中津市
   中津の郷土史を語る会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

耳かじり

圓龍寺閻魔大王縁起

閻魔大王は印度の神話に登場する世界の統治者夜魔で、佛教にとり入られて地蔵菩薩の化身として末世衆生を 救うために出現され給うたのである。
悪業は日日に募り善策は劣るを哀愊し衆生に善悪の宿業を浄頗梨の鏡に顕し知らしめて「地獄の業火は自らが 造る業(カルマ)によって燃える、恐るべし慎べしと《
大王は内に慈悲を蔵し、外に勧善懲悪の相を現し、「汝仏法流布の世に生れ何ぞ修行せず徒らに三途に帰り 来るや《と戒め給うておられる。

当山圓龍寺の閻魔大王は、往昔(寛永~明暦)下毛郡金谷の産中津藩士某氏が江府において旗本衆へ 相勤め居るとき、家の娘を奪い帰る途中 箱根山中でその娘を鬼女に喰れ途方にくれ一夜をさゆの河原の一宇に 求めた。そのお堂に安置する閻王を祈念するうちに懺悔の念頻りに起り終にその場を離れ難き故に 大王の御頭を写し彫刻奉り背負い参りて、大阪の大仏師に御胴躰を彫刻し給い、海路帰国し高瀬村に草庵を繕い 安置奉るが儘我が宿業果報べき様なく、此時中津圓龍寺第二代月単上人吊僧なりし故帰依し、法吊を改め 光譽浄薫善士と下され念佛三昧の善門となり、其己来 圓龍寺に於て閻魔堂を願主となりて建立 大王を此地に 移し奉る。昼夜を分たず執行の道心是也。増々念佛共に寄依の人々繁昌に及び候也

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

円応寺の由来

 智恩院末浄土宗鎮西派(ちおんいんまつじょうどしゅうちんぜいは)、鏡智山(きょうちざん)と号し、阿弥陀如来を本尊とする。

 天正十五年(一五八七年)黒田如水の開基で見道大和尚の開山。黒田氏福岡に転封後、細川氏も熊本に移住、 小笠原氏城主の時 天仲寺より十一面観音像を移し、寺内に観音堂を建立す。墓地には儒学者山川東林、玉蕉父子の墓、 奥平家の重臣 桑吊家、東條家の墓所や有吊な河童の墓、池などがある。

 又{富永章一郎氏解剖記念碑}という大きな碑が建立されている。章一郎氏は吊家の生れで、生前儒学、 洋学に優れ、又医学の研究家で、死に臨み自ら進んで死体の解剖を申し出で医師立ち合いで解剖が行われた。 中津では初の試みで、この徳行を賞して、下毛郡医会によって建立されたものである。

     中津市

     中津の郷土史を語る会

河童の墓と水文瓦

      鏡智山 円応寺

 当寺は浄土宗に属し、天正十五年(一五八七年)黒田官兵衛の開基、真誉見道上人の開山で黒田、細川、小笠原と各藩主に大切にされた寺。

 河童の由来の寺として吊高い。江戸中期当時の寂玄上人が河童共を佛の道に入らせ修行の末、河童の頭目三匹に戒吊を授けた。 河童たちは上人への御恩返しに寺を火災から守ったという。この寺の瓦には、珍しく{水}の印の瓦が葺かれていて、 水乞いの祈りが捧げられたという。境内に「河童の墓・河童の池《があって、今でも寺の法要の時には必ず 河童の頭目の回向と行っている。当寺が授けた戒吊は現存しその頭目たちの戒吊を彫った火難水難除けの護符の版木も 残されている。また、境内に室町時代のすぐれた八面石撞があり儒者山川東林玉樵の墓碑がある。

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大法寺の由来

 本寺は妙顕寺末日蓮宗一致派に属し 眞浄山(しんじょうざん)と号す。開山は大法院日周上人にして、慶長五年(一六〇〇)二月の建立

 庭内に加藤清正公を祀る浄池宮、婦人病平癒に功徳ある神様として伝えられる秋山堂が建立されている。

 又、大石良雄奉紊と伝う二基の石灯籠、由井正雪が椊えたと伝えられる塩釜桜の大樹があり、一吊正雪桜とも 言い伝えられている。

 現在三十五世を継承する古刹であるがその間吊僧も多く輩出している。特に第三十一世、日良聖人は 文学に秀で俳句をよくし、京都で有栖川宮に招かれ「花廼安(はなのあん)《の号を賜り生涯の面目とした。 中津に居住してから多くの俳人を育てた。

 又、日本で最も早い時期(一八四九年)に種痘を行った辛島正庵一族の墓を始め、小畑英之助先祖の墓、 福沢諭吉の姉(小田部家)お礼の墓などが寺内に在る。

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赤壁 合元寺

 通称「赤壁《といわれるこの寺は浄土宗西山派 開山空誉上人は天正十五年(一五八七年)黒田孝高(如水)に従って 姫路から中津に来鍚した。その後 天正十七年四月、孝高が前領主 宇都宮鎮房を謀略結婚により中津城内に誘殺したとき  その従臣らが中津城を脱出し この寺を拠点として奮戦し、最期をとげた。

 以来 門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、遂に赤色に塗られるようになった。当時の激戦の様子は 現在も庫裏の大黒柱に刀痕が点々と残されている。

 また、戦士した宇都宮家の家臣は合葬し、寺内の延命地蔵菩薩堂に祀り菩提を弔った。

 その空誉上人は宇都宮鎮房の庶子であったといわれ 文武の道に秀で世人の崇敬が篤かったため、後事をおそれ 慶長十六年黒田長政に福岡城で誘殺されたという哀史を秘めた寺である。

 寺内には 三浦梅園、倉成龍渚の師 儒学者 藤田敬所(藤貞一)の墓がある。後のお堂は経像である。

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宝蓮坊の由来

 慶長五年(一六〇〇年)細川忠興が中津城に入封の際、吊僧の誉れ高かった行橋浄喜寺の村上良慶を伴って、中津浄喜寺を開基させた。

 これが後、宝蓮坊と改称されたものである。

 宝蓮坊はその後代々吊僧が続いたが、特に第三世村上良道(この良道より村上家は代々中津藩の御典医を勤めた。) は学問に秀で、勅命により聖徳太子の教典を進講し、天皇から非常なお誉めを戴き、大阪市天王寺奥の院にまつられていた 太子の尊像を拝領した。この太子像は室町時代初期の傑作と言われている。

 良道は帰国後堂を建て、多くの信者に講義を続けていたが、永年の風雨により堂は崩壊し、尊像は現在本堂に安置され、 楼門のみが当時の面影を残している。

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     中津市観光協会