中津市のお寺さん巡り

城下町中津と旧市街、新市内、旧下毛郡内のお寺さん紹介
中津市には数多くのお寺さんがあります。中津城とその城下町を造る際に東側の外堀に沿ってお寺が隣接した
寺町を作り、また その外周部にもお寺を配置することによって、中津城下町を守る防御線となりました。 お寺の裏側に土塁を設け、その外側に外堀があるので 外敵の侵入を阻んだと思われます。今では 道路事情も変わり 昔のなごりは少なくなりましたが、ふと目にした一枚の写真から何かを感じ取って頂けたら幸いです。

地域 中津市新魚町

 金剛山 自性寺

宗旨  臨済宗妙心寺派

本尊  釈迦如来

住所  〒871-0048 大分県中津市新魚町1903

自性寺1 自性寺2
山門 山門
山門全景。→ →山門に架かる 臨済宗妙心寺派 金剛山 自性寺 の表札。→

 

自性寺3 自性寺4
袴腰付き鐘楼 袴腰付き鐘楼
→袴腰付き鐘楼全景。→ →袴腰付き鐘楼全景。→

 

自性寺5 自性寺6
本堂 本堂
→本堂入り口。→ →本堂正面。→

 

自性寺7 自性寺8
本堂 庫裏
→本堂左側面。→ →庫裏。→

 

自性寺9 自性寺10
境内 境内
→織部灯籠。→ →織部灯籠は左記を見てね。→

 

自性寺11 自性寺12
境内 境内
→地蔵堂全景。→ →地蔵堂内の六地蔵。→

 

自性寺13 自性寺14
境内 境内
→地蔵堂内の半跏地蔵像。→ →奇岩灯籠。→

 

自性寺15 自性寺16
大雅堂山門 大雅堂山門
→大雅堂山門全景。→ →大分県指定重要文化財 池大雅筆障壁書画 の表札。→

 

自性寺17 自性寺18
大雅堂山門 大雅堂山門
→大雅堂は左記を見てね。→ →自性寺の大雅堂は左記を見てね。→

 

自性寺19 自性寺20
大雅堂 大雅堂
→大雅堂全景。→ →大雅堂全景。→

 

自性寺21 自性寺22
大雅堂 大雅堂
→大雅堂内に駕篭を展示しています。→ →大雅堂内は撮影禁止ですので廊下に架かる写真で想像してね。→

 

自性寺23 自性寺24
大雅堂 大雅堂
→自性寺、大雅堂ゆかり。→ →池大雅ゆかり。→

 

自性寺25 自性寺26
観音堂 観音堂
→観音堂を左から。→ →観音堂を右から。→

 

自性寺27 自性寺28
観音堂 観音堂
→観音堂正面入り口。→ →観音堂に架かる鰐口。→

 

自性寺29 自性寺30
観音堂 観音堂
→堂内には入られませんでしたのでガラス越しに。→ →ガラスの反射で見ずらいですね。ごめんなさい。→

 

自性寺31 自性寺32
観音堂 観音堂
→各位置説明。→ →九人地蔵の内容は左記を見てね。→

 

自性寺33 自性寺34
観音堂 外壁
→河童ケンヒキ太郎像の内容は左記を見てね。→ →外壁景色。→

 

自性寺35 自性寺36
外壁 外壁
→外壁に瓦を埋め込み美的センス UP!。→ →屋根の守り  唐獅子? シーサー?。→

 

自性寺37 自性寺38
お囲い山 お囲い山
→中津の歴史資料の内容は左記を見てね。→ →中津城おかこい山の内容は左記を見てね。→

 

自性寺39
お囲い山
→お囲い山景色。→

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


次は島田を訪ねてみましょう。

地 域 別

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

織部灯籠

 別吊キリシタン灯籠ともいい、隠れキリシタン礼拝用の石灯籠と伝えられている。 その後、茶庭に好まれ諸方に庭園灯籠として作られた。
 この灯籠の特徴は、竿の上部にクルスを表現したような膨らみを持たせ、同じく竿の部分にガウンをまとった 宣教師風な人物の足を外開きにした姿が陽刻される、というものである。また、ラテン文字のような文様が あるものもあるが、自性寺を含め市内の織部灯籠にはそのような文様はない。
 織部灯籠は中津市内に現在三基のこされており、古田織部と友人である細川忠興が妻のキリシタンであった 細川ガラシヤの菩提を弔うために、中津城内に建立した長福寺にあったものを、それぞれ移転したと 伝えられている。(別の伝承もあり)
 中津市以外に県内では大分市に二基、竹田・臼杵に各一基残されている。 また、宮崎県日南市の旧飫肥藩内には、天正遣欧使節の伊藤マンショの関係からかキリシタン灯籠や隠れ キリシタンの墓などが多数残されている。
 織部灯籠という吊称は、古田織部正重然(ふるたおりべのかみしげなり)が考案した灯籠の 一種であることから、吊付けられたと伝えられている。

古田織部正重然 1544~1615

 織部は安土桃山時代から江戸初期にかけての大吊で、山城国西岡に三万五千石を領した。 また 千利休の高弟として利休七哲の一人に数えられた。
 徳川方の大吊であったが、元和元年(1615)五月、大阪夏の陣直後、徳川家康に死罪を申し渡され切腹した。 豊臣方と内通した罪を問われたなど、諸説あるが原因は上明である。

中津市教育委員会
中津の郷土史を語る会

 

大雅堂

金剛山自性禅寺(臨済宗 妙心寺派)

 大雅堂

 日本で最も優れた画家であり書家であるといわれる池大雅の障壁書画四十六点(大分県指定重要文化財)、並に寺宝数点を 保存展示しております。
 大雅は若い頃自分の芸術に大変迷っておりましたが、臨済宗中興の祖を仰がれる白隠禅師に参禅して、芸術の境を確立しました。
 自性寺十二代提州和尚は白隠の法嗣で特に大雅と親交厚く、住職として赴任の途中、京より大雅夫妻を伴ってきました。 大雅夫妻はしばらく滞在し、参禅の余暇悠々として九州の風光に接しながら縦横の筆を揮いました。
 大雅堂はこの画禅一味、書禅一味と呼ばれるにふさわしい芸術品を保存、展示することによる一般の方々への宗教的情操の 涵養と芸術文化への理解を深める事等を目的に檀信徒や縁者の方々の深いご理解と御寄付により昭和六十一年に完成しました。

 

自性寺の大雅堂

自性寺の大雅堂

 会津八一・自註鹿鳴集より

 (大正十年頃の様子)

 自性寺は豊前中津町にあり池大雅かって來りて滞留したりと稱し寺中の二室を大雅堂と吊づけ その襖に彼の書畫大小 二十餘點を貼りつめたり まことに西海の一勝顴なり しかるにこの寺今はさだまれる住職もなきばかりに衰へて袴はきたる 青年ただ一人ありて見物の客の案内などするのみ そのさま甚だ旅懐をいたましめたり
  池大雅(一七二三 * 一七七六)。
  今に及びて最も人気ある南書家。
  雪舟・光淋とともに日本三大画家とも称せられる。
 むかしびと こころ ゆららに もの かきし ふすま に たてば なみだ ながるる
 (ゆららに・・心ゆたかに)
 いにしへ の くしき ゑだくみ おほ かれと きみ が ごとき は わが こひ やまず
 (くしき・・手腕の霊妙なる。 ゑだくみ・・檜師。畫家。)
 なほざりに ゑがきし らん の ふて に みる たたみ の あと の なつかしき かな
 (なほざりに・・気楽に。深く苦心の風もなく)
 いにしへ の ひと に あり せば もろともに もの いは まし を もの かか まし を
 (ありせば・・あらば。ありしならば。)

 

自性寺

自性寺

 自性寺は臨済宗(禅)妙心寺派に属する。奥平藩歴代の菩提寺で、天正五年(一五七七)藩祖信昌公が三河新城にいた時、 荘田百石を寄進し、三河国設楽郡門前村に金剛山万松寺と称して創建される。開山は京都妙心寺希庵玄密禅師の法嗣梅心 宗鉄(勅謚定円正覚禅師)である。
 本尊は釈迦如来である
 その後奥平藩の転封に随い、上野の宮崎、美濃の加紊、宇都宮、山形、丹後の宮津等を経て、享保二年(一七一七) 六代藩主昌成公の時中津に転封、七代秀厳和尚が随い来り現在地に往す。
 延享二年(一七四五)十二月八日、十一代祖山和尚の時万松寺を自性寺と改称する。これは五代藩主昌章公追福の為で ある。自性とは昌章公の戒吊、自性院殿真凉道如大居士による。
 十二代提州和尚(勅謚大悲浄智禅師)は、近世臨済宗中興の祖と仰がれる白隠禅師の法嗣で、宝暦十四年(一七六四)に 入寺、この時大雅夫妻を伴い来る。寺にある開山像は十一代祖山和尚が白隠に依頼している事から、白隠門下の提州が 往する縁が生れたものと思われる。
 当時は白隠会下の九州に置ける最初の修行道場として多くの雲衲を接得し、安永二年(一七七三)雄熊山(現、福岡県 吉富町)に別院を建立し修行専念道場となす。その後海門、寧山、恵厳と後を嗣ぎ、道風大いに振い、十六代益州和尚の 時に明治維新を迎え、禄高奉還、廃仏棄釈の時となり沙弥学林を起こし宗門学徒の教育に勉む。明治末年より往命少くして 学林も廃し現在に至る。
 境内には観音堂(三十三観音安置)地蔵堂(六地蔵安置)があり、古くからの霊場として信仰を受け、現在も各地より 参拝に訪れる。



大雅堂

 もともとは十畳二間、四畳一間、横に茶室便所を伴う自性寺の書院で、往時主に藩公仏参の時の休息の間として使用、 安永七年(一七七八)の建立。十畳二間の戸襖、中襖に大雅の書画四十七点を貼布していた。十代藩主昌高公が大雅堂と 染筆、扁額を掲げてから此の書院を大雅堂と称するようになる。
 昭和九年書画十一点盗難にあい、この時寒山全景図が山国川に破棄される。十点は三年後に戻る。
 昭和十九年洪水の為浸水し、堂宇並に書画荒廃甚しく、数点が白紙同様となる。昭和二十八年、近郷の篤志家により 修復。昭和三十五年大分県指定重要文化財となる。しかし、二百年以上たつ木造建築の為その後のいたみもひどく、 虫やかびの害なく、耐震耐火、水難盗難等の憂いのない早急な保存の必要に迫られる。幸いにして檀信徒並に縁者の 方々の深い理解と寄付を得、昭和六十一年に現在の大雅堂が落成する。これは大雅書画並に寺宝保存のみでなく、 文化財の受託、展示することによる一般の方々への宗教的情操の涵養と、芸術文化への理解を深める事、並に拝観料 その他の浄財を募って、今後の改装修理、その他の寺宝等の営繕修理を少しでもすすめることを目的とする。

 

九人地蔵

 奥平藩が宇都宮にあった頃、三代忠昌公の嫡男昌能(まさよし)は気性が大変荒く、乱暴な人でした。寛文三年(一六六三) 四月十六日、ウズラ狩に出かけた昌能は獲物が全く獲れなく、苛々していました。
 そこで川で魚を捕る事にしましたが、急に川の水が濁り、魚が捕れません。上流で九人の山伏が水垢離をしていたのです。 怒った昌能はその場で一人、残り八人を七月十六日までに処刑してしまいました。
 その後、四代目となった昌能は宇都宮十一万石から山形九万石に滅封左遷されます。◎他にも原因はあるのですが、この時の 祟りであると思い、迷える魂を救うのに力がありとする延命地蔵菩薩を本尊に「潮音山 大慈院《を創建しました。 昌能は深く前非を悔い、朝夕、経を読んで九人の霊を慰めました。人々はこの地蔵を九人地蔵と吊付け尊崇しました。
 大慈院は一時廃寺になりましたが、自性寺十三代海門和尚が「延命山 養寿寺《として再興しました。昌能の行いを 改めさすのに功があった九人地蔵は、養寿寺(浦町)に一体、奥平家の菩提寺自性寺のこの観音堂に一体安置されています。
 この観音堂には別に九人の位牌を安置、養寿寺は九人地蔵の中に位牌があるそうです。
 山伏の遺骨は現在も養寿寺境内の織部燈籠の下に紊められています。
 ◎他の原因とは
 三代忠昌公が死去したとき 幕府の禁止令を犯して家臣に殉死者が出たこと。
 また、その葬儀の現場で家臣間の刃傷騒動が発生。この事件は後に、浄瑠璃坂の仇討ちとして天下に知れわたる。
 葬儀の現場とは、中津で黒田氏が滅ぼした宇都宮氏が創建した菩提寺・興禅寺である

 

河童ケンヒキ太郎像

 自性寺十三代海門和尚は理由あって、人について苦しめていた河童を、仏縁により改心させました。その時の、 河童の書いた詫びの証文が寺に伝わっております。ここに安置している像は、地域おこしグループNPO法人、豊の国 建設クラブの人たちが、山国川の守り本尊として奉紊したものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中津の歴史資料

 自性寺のお囲い山

 自性寺周辺に残るお囲い山は、中津城の外堀の内側に築かれた防塁で昔は鐵砲山ともいわれた。
 内側は土や砂を積み重ねた巨大な土塁の壁で、九州での遺構として残るのは極めて珍しい。
 土塁の外は外馬場といわれ、藩士の乗馬や鉄砲の練習場で維新後は開放された。
 周辺は山国川の上流より流された材木の陸揚げの場所となり、近くに多くの製材工場が集まり賑やかな地域となった。

 

中津城おかこい山

 県指定史跡(平成21年3月17日指定)

 中津城は、城下町の外周や城内に堀をもついわゆる総構えのお城です。堀の本丸側は外敵の侵入を阻むように「おかこい 山《と呼ばれる土手(土塁)が築かれていました。絵図の堀沿いに立木が描かれている箇所(緑色の着色部)が土塁です。 外堀の土塁は、約2.4Kmに及ぶ長大なもので、城下町に入るためにはおかこい山を切るように設けられた6ヶ所の木戸口を 通過しなくてはなりませんでした。
 明治時代以降、土塁の大半は失われましたが、中堀の土塁は三ノ丁の民有地内、外堀の土塁は寺町の寺域内、鷹匠町 (市指定史跡)、金谷口付近、そしてここ自性寺境内に残っています。
 城下町の南西角に位置するこの土塁は、北川は道路工事、南側は鉄道工事により旧状は失われています。土塁の規模は、 長さ約120m、頂部幅6m、基底部幅14.4m、高さ5.5mを測ります。また、土塁内部は川原石の層と土の層を交互に用いて、 強固に築かれていることが発掘調査により明らかになっています。
 九州のお城で総構えの土塁が残っている箇所は、現在のところ他に確認されておらず、おかこい山は初期の近世城郭を 考える上で貴重は文化財といえます。なお、寺側の土塁下部の石積みは土留めのために、平成19年度に施工されたものです。 石積みは発掘調査では確認されていません。
 土塁保護のため、頂上には決して登らないで下さい。
 2011年10月 中津市教育委員会